Strafkolonie-キャラクター資料館【本家/学園共用】
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fld_nor.gif 【書冊と木簡】
投稿日 : 2022/11/26(Sat) 08:55
投稿者 繻 雪娥
参照先
【ほうぼうの書架に並べられている、とある歴史書に綴られた一節】(転遷前)

また、

【出現の度に空欄が埋まる、ブックカフェ「パピルス」に再びあらわれた木簡の歴史書】(転遷後)

を纏めたもの。
編集 編集
件名 【いずれ読むことが可能になるであろう木簡の章】 山荷葉の章
投稿日 : 2023/04/11(Tue) 22:17
投稿者 繻 雪娥
参照先
 皇都より遥か北西の外れに、水さやけく緑豊かな、小さな沢に恵まれた郷がある。
 その沢を奥へ辿ると、濡れて透明にすきとおる花々に囲まれて、苔むした賢人の碑がぽつんと建っていることは余り知られていない。
 けれど今でもその郷の者達は、月命日に一度、こぞって碑の裾辺に一杯の御茶を奉じることを絶えず続けているのだという。
 ひそやかに沢に浸かって咲く花々になぞらえて、『山荷葉の碑』と呼ばれている。

 さて北と言えば、数多の曰くを持つ第十四代皇帝の皇后が一族の土地と伝えられている。
 つまり二度の政変の際に最も彼の地から皇后の元へ人も物資も注ぎ込まれた土地であり、結果、非常に重たい税と恐慌に襲われた。かつ、そうなればかの孟胡からも好機と狙われる土地になったのが此処であった。
 そんな場所にあって、この郷にまだ、碑に刻まれた文字を残すことを守り通した妙才というのが、山荷葉の賢人の逸話となり、ここに残っているのである。

 その賢人、名を『慕朙』という。元は中央にて名を馳せた武官のひとりであったらしい。
 一度目の政変の折に、皇后はみせしめとして『後宮を危険に晒し、その責を負わなかった』として多くの者達に罰を処した。ほぼほぼ言いがかりのようなもので、目に着いた武官文官達の中からまるでくじ引きをするように刑を与えることもあったという。
 『慕朙』も運悪くそうして指名された一人であった。
 まず鼻を削がれた。その次にそこから上半分の顔面の皮を剥かれ、焼かれて盲とさせられて、花形の都から遠方の国境警備の職へ飛ばされて此処に来た。
 当人はそれでもまだ、己は運が良かった、と言っていたという。肘の健も膝の骨も抜かれずに済んだのだから、と。
 ――四肢は満足であった。この時は。
 そのお蔭で、二度目の政変の折に攻め込む孟胡より、この郷を護れたのだから、と。

 この賢人の異なるところは、その盲の顔面だけに尽きない。
 二度の政変の後も郷と人々を守る事だけに身を投じたのち、遂に両肩から先の腕も失われてしまったという。
 けれどその甲斐あって、と言った方が彼は喜ぶのだろう――…果たして政変から数年後、この郷と沢を通る道は、通常に加えて少しの警護があれば一般人も通れる程に平穏を手にした。

 双眸と鼻と肩から先を失った『慕朙』であったが、その後の生活に苦労はほぼなかったと言われている。この通り、恩を感じた郷人どもが山荷葉の沢のほとりに彼の為の庵をたて、日々の食事を分け与え、一度起きかけた飢饉の際にも決してそれは途切れなかった。
 いずれ水の豊かな庵のまわりには、『慕朙』の穏やかさを気に入った動物たちがねぐらを作り、それも彼の残生を豊かにした。
 郷人からも、彼等がどうしても畑仕事でせわしむ際、ねずみや虫が増えすぎて害がならないようにと猫を庵傍に放った際には可愛がられ、子を為し、にぎやかになっていく様を『慕朙』も音に聞いては楽しんでいたという。
 そうして人々は、そんな賢人の様子に喜んだ。ときどき、『慕朙』は彼等に庵で生まれた猫の子をさし渡すことがあり、不思議とその猫を得た一族は人生を豊かかつ穏やかに過ごすことが多かったという。

 さて。
 そんな賢人を訪ねる者が現れた。
 このは色の髪を括って、高嶺の向こうの空を想わすかのような色のまなこをした、若々しい娘であった。
 旅の途中で偶然一緒になったとあるやんごとなき人より申し付けを受け、人づてにどうにか此処まで探し当てて来たのだと言う。
 はじめ、郷の者達は彼女を賢人のもとに案内して良いのかと迷ったことだろう。
 心配であれば、是非、ついてくるように。と、娘はひと懐こい笑顔で申し出たと言う。
 郷人達の前で賢人へ自己紹介をするので、それに返事がなければ自分も、この依頼は自分には過ぎたものだと判断して無理はしないのだという。ねこの子のように襟首を掴んで引き下げて良い、と言い添えた。
 そうなればこの気の良い山荷葉の郷人達は何とも言えない。ぞろぞろと行列を伴って、賢人の居るいおりの沢迄ついてきたのだという。

 恐らくはそのざわつきだけで、賢人はかつての武人としての勘を働かせただろう。もちろん、まずは悪い方へと。
 めしいの男がいおりの戸を開くと、己の背を行列に取り囲まれた娘が大きく、袖を広げた。

 片手を空へと、もう片手を対称へ。裙の裾が正円をひらくほどに、そして一直線に開いた両腕の袖が靡いてまるで陰陽を描くかのように、くるりと。
 世によれば胡旋舞と呼ばれるそれである。非常に難度の高い舞で、「その一族に連なるものしか踊りえない」とまで言われる。
 元武人であった賢人は、かつて瞼のあった場所に受ける風の当たりだけで、娘が舞ったものが何かを察した。今は昔、皇都では貴人へ捧げられるものとして舞われたそれである。思い出す記憶が彼女の献身さを察知したのであろうと言われている。

 彼女の裙と袖が落ちると、裾に仕込んでいたのであろう異国の春の花の香りが咲きこぼれた。全ての人々が目と、そして鼻をまたたかせているあいだに、彼女は己の名を申し上げきる。其の名を『茱艾』――…まこと、艾か茱萸かのようにうぶげ立つみずみずしき若い娘であったが、今の言葉に直すとその名乗りはこんなふうであろう。

『あたし、茱艾って言います!』

 ずいぶん砕けた自己紹介の幕引きに、賢人は庵の戸にかけた腕かわりの足を落とし、その隙間から子猫の一匹が躍り出た。

『わあ、かわいいですねっ。』

 そうしてその四つ足の子を抱き上げて娘が更に続けた言葉には、いっそう郷人の目からも全ての険を抜き切ってしまったことだろう。




 ひとびとが居たままでは『茱艾』が申しごとの口を開こうとしなかったので、『慕朙』は心配は要らないと郷人たちをふもとへ下がらせた。場を和ませようと、この腕では茶のひとつも淹れてあげられずに済まないね、と慣れぬ冗句を飛ばしたところ、
『あっ、大丈夫です、準備してきました! あたし、お茶を淹れるの好きなのです。』
 でも賢人さまにお出しするのは緊張しちゃいますねー、あはは。であるとか、
 だけどこの沢の水を使わせて戴けるなら光栄です! であるとか。
 そんな物言いをする間も、娘の回りを庵の猫達がまとわりついていたから、『慕朙』も幾分か気を許すことになったのだろう。とは、今もこの郷に住まう大婆による伝聞である。果たしてどこまで正しいのか、この描写を残すべき必要があったのかは分からないが、後世にてこういったささいな記録から読み解かれることがありやなしやというのはままあること。こうして筆者は筆に墨を浸らせている。

 さて。一服を差し出すと、娘はやおら背筋を正した。

 曰く。
 近々、この辺りを緋墨の一行が客人を連れて通ることになっている。先ずはこうして北へ抜ける道が安全に使えることになったことを、民のひとりとして感謝を伝えたい。
 自分自身も、年老いた祖父と連れ立って旅を楽しむ者である。数年前まではとてもこんな風に暮らせる日々が来るとは考えもしなかった。
 ――今とて異族として追われることはあるけれど、逃げられる道があるというだけでもどれほど心強いことか。

 そして。
 近々通るこの「客人」の為に捧ぐ贈り物として、『慕朙』の元の猫を一匹いただきたいのだと申し出た。
 貰い受けるのは『茱艾』ではない。『茱艾』もまた、頼まれた身である。

『此処より更に北方の領地の、まるで黄金のような髪をしたお姫様が、』

 と、依頼人のさまを説明した。
 その、黄金のおぐしのお嬢様が、緋墨に連れられて北へ至ろうとしている客人に捧げる贈り物として、『慕朙』の猫を求めているのだという。
 そしてまた、そのきんいろのひめぎみとて、それは更に別から提案のあったことで(つまりは、客人に猫を贈答することを)、ひめぎみは里子の主として『慕朙』を思い当てたに違いなかった。

 そしてまた、『慕朙』もすぐ様に思い当たったことであろう。対する『茱艾』も当然全てを察した、澄み切った色のまなこを持つ娘である。

 第十五代皇帝の御代になって暫く。選秀女もつつがなく終えられ、偉大なる皇帝の元には選りすぐられた賢妃と官吏が双璧を為してまつりごとにあたっている。
 はじめは皇都を起点とし、中央の政治を整えるので手一杯であったが、少しずつ落ち着きを取り戻した今になり、ようやく先の功労者達へ褒美の分配が行われ始めたころ。

 特に南下の一領国については、始まりから終いまで時の皇太子、今は皇帝の後ろ盾となったことは周知の事実である。
 かくあって、皇帝は選秀女を通過したいと才気あふれる妃より、特に目を掛けていたひとりを其方の城主へと下賜することになっていた。
 ほんとうにめでたいことと、よりすぐりの女官や、その妃の宮に飾られていた珊瑚にめのうに絹織物を惜しげなく引き連れての行幸である。その祝婚の宴は、皇都でも南都でも十日ずつに及んだと言う。
 ――とは言えそれは、先代の妃たちがかつての宮にしまい込んでいた財を、婚儀の祝いを蓑にして各地と民に配分する為でもあった、らしい。南都ははじめのとっかかりにすぎない。
 とは、『慕朙』『茱艾』両名ともが茶器よりのぼる湯気を吸いこむことで胸にしまい込んだ。

『――とりかえばや、』
『わっ。ここまで噂になっちゃってるんですね?』
 そう。
 此方の話題は口をついて出た。この話は、ときに喜劇の形をとって、或いは悲劇の形をとって、まことしやかに民の一部に流れているものであった。

 つまり、南領の王がお気に召して下賜を賜ったのは、選秀女を受けて通過した妃のほうではなく、その妃付きの女官であったと。
 元より政変前から身分ちがいの恋にあったのを「とりかえばや」して遂げおおせたのだとか、妃のほうが女官に全てを押し付けて逃げたのだとか、眉唾ものの噂はこの国のあちこちに現世の今でも残っているであろう。
 まずもって本当に「とりかえばや」が行われたのか、筆者にも分からない。ただ、この郷で脈々と碑文と血を注いで来たものの中では、前者の説が今も言い伝えられている、という事実だけがある。
 そして、苔むすとも現存している『山荷葉の碑』こそ、いかにも少々の現実味を帯びてみせてくれるではないか。
 またもうひとつ、噂の真実味を増させる更なる噂が、この近辺でこの時に生じていた。

 緋墨の守る客人は、鎮火しつつも水面下では未だ長引き、いつ吹き返すとも分からない対孟胡の布石となる為に北へ遣わされている。
 これまた、此処に至るまで前皇后の意向あって、辺境と言えども他国と血の縁を決して結ぼうとしなかった、この北領。ここを守る為に、孟胡を越えて更なる北へと、その客人が遣わされる。
 つまりは血の結び、輿入れである。意味を成す為には、差し出す身には確かな慈瑤国の血が流れていることが必須であり、従って相応の家名を持つものだけがその証を持っている。
 恐れながら、いち平民では足らぬのだ。

 つまり緋墨に護られた貴人とは女性であり、辿れば其の身は――…。
 しかし、これ以上のことを推測こそすれ、『慕朙』はその先を口に出すことは無かった。
 彼にとって大切なのは、この郷が、ここの人々が、これ以上危機に晒されないこと。
 目前の『茱艾』が差し出した茶の香りは一級であった。確かに、かつて王城内で嗅いだものと同一である。
 それを出せるだけの者を緋墨が匿っている。そうしてその事情は、確かに『慕朙』が望むものと道が合致したのであろう。

 賢人は重たげに、ようやく、けれど口の端に僅かに表情を浮かべて応えた、と、郷の記録には記されている。けれどそれがどんな顔だったのかは具体的には伝わっていない。
 当然だ、彼には顔がなかった。
 けれど、ふいと顔を沢のほうに向け、嘗て瞼のあった箇所をひくひくと引き攣らせて、まるで目配せするようにして『茱艾』へ教えたようである。

 奥の沢の水たまりのようになったほとりに、ようやく乳離れをしたばかりの雄の子猫が、よくまどろんでいるのだという。
 珍しい曇天の毛並みの色をしていて、他の猫よりもふっくらと頬が横まるく、四肢を折り畳んで座る様には何処となく気品、というよりもいっそ貫録を覚えさせる。
 郷の者たちが、側面に珠のような渦模様をもつといって、幸先良しと可愛がっていた。他の子猫と比べても手足大きく、毛が密な様は自分も良く知っている。
 きっと、北への旅路にも耐え得る、これ以上もない伴となってくれるだろう、と。

 名はその『客人』とやらにつけて貰うよう言い添えて、庵の戸をあけて、早く迎えにいってやるよう『茱艾』へ促した。
 深々とこうべを垂れる様による風の動きが、かつて双眸のあった場所を撫でたろう。それに笑み返すことも最早出来ない身であったが、逆に故にこそ、更にこのように言葉をつづけたのかもしれない。と、矢張り口伝が残されている。

 ―――もう一、二年が経ったら、更に一匹を迎えに来るようお伝え願う。
 その時にはきっと、差し上げる意味が変わっているだろう。
 次は雌の子で、毛並みは更に珍しく、天鵞絨に星をちりばめたかのような螺鈿の毛並みになるであろう。 と。


 果たして直ぐに、まず銀繻曇天の毛並みの猫が、きんいろのひめぎみの伝手を経て、誰かより客人へと奉じられたことが先ず明確に記録に残っている。
 猫の過ごしを報告する手紙が几帳面に都度届けられていたそうで、その幾つかは今も郷に残されているのだという。
 青く滲むうすずみで綴られたそれは、肝心な署名の部分だけは朽ちて読めなくなっているし、かつ、記されていることは猫のことばかりで、矢張り誰の手によるものだったかは知れない。

 ただ、翌々年より記される猫の情景が二匹分になっていた。
 二匹目の螺鈿の毛並みを受け取った知らせと共に、おくやみの文面が添えられていて、そこだけは確かに残っている。
 どうやら『慕朙』は二匹目をことずけると同時にその命を封じた。鼻を削がれ、顔を焼かれ、両腕を失った身としては長寿の類であったようにも思うし、その如才に照らし合わせるとあまりにも短すぎて天の損失は大きすぎるとも言えただろう。事実、後日に宵明珠の巫女が祈りを捧げにくるときまで、郷の天気はしとしとと涙雨に暮れ、沢の山荷葉は透き通り過ぎて誰の目にも見えない程だったと言う。
 この見えぬ山荷葉の話はいずれ伝説となり、特にこの北への道を往く旅人たちが足を延ばして訪れては祈りを捧げることが多くなった。
 いずれ郷人の手によって庵の側に碑文が立てられ、庵が朽ちて花に戻った今となっても伝説となって残り続けているのである。

 『慕朙』が命を封じて後も、猫を引き取った客人からの手紙は絶えず送られてきていたという。
 それは二匹の猫がどちらも穏やかに、恐らくは彼女――の膝の上で、四肢を折り畳んでぬくぬくとした表情で最期のまたたきの目を閉じるまで続けられ、終わりに、一度だけあったという『慕朙』からの返事のひとことについてが綴られていた。
 そうしてその言葉をなぞるようにして、長く続いた手紙の終わりはこう締めくくられていたという。


『私は、幸福な飼主でした。』


 その手紙を郷へ届けるのは、決まって『茱艾』の役目だったと伝えられている。幾つになっても、うぶげみずみずしい少女のようなひとであった、と。


(その後の文字は点滅し、再び読めなくなってしまっていた。)
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件名 【いずれ読むことが可能になるであろう木簡の章】 緋墨当千の章 
投稿日 : 2022/11/30(Wed) 20:56
投稿者 繻 雪娥
参照先
(同様にして未だその項は空白である。)
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件名 【いずれ読むことが可能になるであろう木簡の章】 両明珠の章 
投稿日 : 2022/11/30(Wed) 20:55
投稿者 繻 雪娥
参照先
 陽明珠、という宝石がある。
 先の第十四代皇帝の時分にとある異国の歌姫によって慈瑤国に持ち込まれた稀有なる真珠である。
 陽明珠は持ち込まれて暫く、国に逗留されていたその巫女なる歌姫の居る祠に祀られていた。
 その宝石が、次代――…第十五代皇帝となる皇太子の宮が後宮内に出来た時に城内へと場を移すことになったのである。

 この国の在る大陸には海から続く遥かなる大河が流れているが、その海にて丹念に育まれた乳白の真珠が河をつたい、上流である北西へと水面を泳ぎながら流れてゆく。
 水を照らす陽の光を内に宿し、最上流で確保される真珠は内側から仄かに黄金色を透かすように輝くのだという。特に身ぶりの大きなものは「天女歌仙様によって大河を逆流し、運ばれた」と言って、【陽明珠】と呼ばれる希少な宝物となる。

 このときに奉じられた陽明珠もその伝説にそぐわしい見事な逸品であった。
 第十四代皇帝の皇后の親指の爪ほどの大きさがあると言われ、ゆくゆくは第十五代皇帝の妃に与うるべし、と言われた。而して暫く、「そのような娘はそうそう世に出るものではない。皇太子自体も未だ若輩である」として、皇后の宝物殿に隠されることになってしまったが――。

 闇深く閉ざされた蔵の最奥へと厳重に安置されて、数年の太陽との逢瀬を阻まれて尚、この宝石は内に湛える金色の光を失わなかったと言われている。

 皇后は幾度かこの石を己の宝飾品に加工しようと試みた事があった。しかしその度、まるで陽明珠の方が拒む様にしてたくらみが為ることは無かった。
 時に鉱職がおそれおびえて逃げ去り、時に細工師の妻が身籠って後宮を追われた(皇后は生涯にして子を持つことが叶わず、幸いを手にしたものを目に入れることは強く拒んだ)、いよいよ強硬手段に出ようとしたときには幾日も雨天が続くこととなり――…飢饉を恐れた皇帝によって流石に制止を受けたとされる。
 代わりに目も飛び出るような金子を使って、皇后の無聊を慰める為に差し出されたのが黄金の大美釵であった。花鳥風月、そして五大霊獣の彫られた其れを打つために民には重税が課された。十二対からなり、皇帝の冠をも超える重さがあったという。
 今となっては風月の彫られた一差ししか残っていない【四美釵】の大本であった。

 そんないわくある『陽明珠』であるが、祀り上げた巫女『水吟』曰く、対となる宝石が存在すると言われている。
 その名を『宵明珠』。陽明珠が真珠であるのに対して、宵明珠の核は玉(ぎょく)である。
 陽明珠とは正反対に、生まれは大河の最上流の山の嶺である。其処で生まれた玉が河の底を伝い流れて海に面した下流に辿り着くころには、矢張り親指の爪ほどの大きさの正円になっている。
 流れるほどに月の光を浴び、宵明珠は暗闇の中でもぼんやりと内側から光を湛えて浮き上がるように見えるのだと言う。
 まるで月日を帯びた琵琶に不思議な力が宿って光り、その光輪が少しずつひとの形を持っては魔仙人と呼ばれる事があるかのように。

 陽明珠に宿る力がその名の通りに【陽】であれば、宵明珠に宿る力は【陰】。
 巫女『水吟』はそのように述べた。いずれ後宮に仕えることになるであろう、女官見習いの娘達の全てに対してである。

 どちらに傾いてもなりません。特に後宮と言う場はとかく陰に傾きがちである。そもそもが女性という存在がそのようにして成り立っている。その女性たちが顕を交わす場所であるのだからそれは当然のこと。
 けれど其処に在ってこそ陽、つまり太子の御世継を宿すべく反対の力をも見失わなかった者だけが、いと尊き御方のよりお傍に仕える才を宿すのです。――と。

 貴女達は陰の果てに生を得なくてはならない。ゆめゆめ忘れることのないように。
 戸惑うような顔をしている娘ひとりの目を見て、そう言い諭したと伝えられている。

「驕傲を抱いてはなりません。」

 巫女の目には、その娘がそうであると映っていたのであろうか。そのたった一人を射抜くようであり、他の全ての娘達にも優しく教え込むような物言いでであった。
 さやさやと流れる水のような話し方をする巫女で、それにより『水吟』という名をこの国で賜ることになったのだという。
 語り口はまるでほがらかに歌うかのようで、実際に巫女として歌の名手でもあったようだ。
 時の皇后の眼もあって、彼女が後宮に立ち娘らへと教えを説いた機会はこの一度きりであったと言われているが――…。
 その言葉は、等しく、全ての娘達の心に波紋を落としたことであろう。かろやかな甘露の一滴となって。

 その娘、『   』が講義中に手を挙げた記録がある。
 「陽明珠が為り、宵明珠が生まれるかの地はどのような場所なのですか?」
 後宮内に於いてそのように外つ国への興味を示すことは禁忌であった。けれど、彼女達も分かっていた。この巫女姫以外からは二度とその機会は得られないだろう、と。
 紫陽花のはなびらのように眼差しにいくつもの光を芽吹かせ、巫女『水吟』は答えてやったという。この先は遠くに伝わる物語としてお聞きなさい、と、彼女等を守る為の前置きをして。

「その土地には、貴女様がたのように清らかな乙女たちが暮らしておいでです。
 貴女様がたよりも明るい色のおぐしを持ち、花のように様々な色彩のまなこをお持ちでいらっしゃる。
 私どもの過ごしている此処を「月の国」と呼ぶならば、かの地は「花の国」と例えられましょう。
 そうして乙女たちには、貴女様がたと同じように、それぞれに役目が与えられてそれを果たしながら日々を過ごします。」

「朝ぼらけの瞳の乙女は流れ着く陽明珠を河川に手を差し伸べて迎えます。それから太陽へとその実りへ感謝をいたします。
 夕ぐれの瞳の乙女は、河川に足を浸して宵明珠の祖となる玉を流します。それから月へと慈しみの導きを願うのです。
 彼女等はふたりで一対、どちらが多くとも少なくともいけません。
 清らなる乙女たちは知っているのです。陽は陰となり、陰は陽を生む。どちらを失っても世の理は成り立たないということを。」

 歌うように吟じあげられた説明に、藍色の双眸のまばたきを忘れる姿が在った。
 睫毛に縁どられた内側はほの朱く乾ききらめいて、見えぬ筈の其の光景を浮かべているようであった。
 あこがれ、焦がれるように。
 それはきっと不敬だと言われよう。娘達が焦がれて然るべき存在はたったひとつであるべきだったのだから。

 しかし巫女『水吟』は、それを見てまるでひとつの神託をおろすかのように呟いたと言う。

「もし貴女様が永遠に私の話を忘れずにいられたのなら、いつか貴女様の願いは叶うことでしょう。」

 いつか、遥か遠い果ての、更にその先で。

「ですが、だからこそ貴女様は決して忘れてはなりません。願いを望むなら、そして叶えたならば還廻すべきものです。
 貴女様で止めることは赦されないのです。
 陽明珠にも宵明珠にも、そして生きとし生きるもの全てに必要とされるものが水。
 貴女様の天秤が水で満たされるとき、どちらかに傾き過ぎてはならないのです。
 ですから、急いてはいけません。水が石を穿つように一滴ずつ、一滴ずつ、貴女様の身に染め込ませましょう。
 陽のひかりを湛えた水を受け止めたなら、次は月のひかりを吸い込んだ水を。
 そうして違いなく身に宿すためには、貴女様の御身が健やかであられることが大切なのですよ。」

 そうはいっても、この場に机を並べた娘達の多くに「その時」はやって来るだろう。と、巫女の目には分かり切っていた。
 祈り、いつくしむような眼差しで娘達を撫ぜた。己の言葉が彼女等の最奥に浸透するよりも先に世は動いてしまうだろうことを察して。

 そうしてその通り、巫女『水吟』はその講義より間を置かず、慈瑤国を追われることとなる。
 彼女が身を寄せたのはどちらの宝石の生まれる場所だっただろうか。其れは今となっても杳として知れない。
 ごく短い時間を彼女の生徒として過ごした娘達も、ひとりまたひとりと消息を絶ちはじめる。


 ―――驕傲を抱いてはなりません。


 後宮から消された娘達も、誰一人決してそんなものを抱いてはいなかった。
 それは確かに巫女『水吟』の残した功績であったし、けれどそれだけで生き延びるには、それに足る手段を得るにはあまりにも時間が足りな過ぎた。

 もし、その時を埋めることが出来たのならば――…。
 出来た者がいたならば。

 その娘こそが、巫女『水吟』の教えを継ぐことが出来たであろう。
 場内の宝物殿に眠る『陽明珠』は、ただ、その時を待っていた。
 そしていつか時が満ちたときには、対となる『宵明珠』もこの国を統べるべき正当なる王の御許に奉じられることとなるのであろう。

 果たして、それは為ったのか?

 正当なる第十五代皇帝の玉座に並ぶふたつの宝石を描いた壁画が、今までその成果を伝えるに至っている。
 玉座の横には妃『  』の姿が有り、その傍には『  』と『  』の姿。
 絵具が劣化して瞳の色はさだかでないが、つややかな『 』の髪だけは今もみごとに絵画の中で輝いているのだ。



(その後の文字は点滅し、また再び読めなくなってしまっていた。)
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件名 【はかりごと事件の後に読めるようになった木簡の章】 春秋四宮の章 
投稿日 : 2022/11/26(Sat) 09:02
投稿者 繻 雪娥
参照先
 ――時は第十四代皇帝が、かの皇后と共に贅の限りを尽くした時代の事である。

 かつて東西に八宮ずつ、計十六名居た寵妃の数は半分以下に減り、彼女等はまた死を免れる為にと皇帝と皇后の眷顧を惹こうとせざるを得なかった。
 むろん、目論見を其れのみで終えまいとする妃も存在はしていた。但し、彼女等の人生は長くない。東西四つとなった妃宮もいずれはまた一つ、更に一つと減りゆくに至ったことは逃れられない未来であった。

 さてそのゆくゆく取り壊しに遭ってしまった一宮、【章丹宮】の話をしよう。其処に住まわれていたのは元は異国より停戦……つまり講和の為に母国より差し出された姫君であったという。
 そういった経緯での入内であったため、皇帝の寵を得てのことではなく、比較的年若くして輿入れをしたことが、彼女を暫しの間、後宮内の争いから遠ざけ得たと言われている。
 しかしどんな娘とは言え歳は重ねる訳で、いかに盟国の姫とは言え皇帝の望みを拒むことは困難であった。そしてまた、妃たちの中でも比較的とはいえ年若かった事も有り子を孕んだと噂され、その後の皇后の悋気は想像に難くなく――彼女を失った後の講和の存続も言わずもがなである。

 さて、とは言え未だ彼女が【章丹宮】にて息をひそめていた間、その元に仕えた者達の存在がある。
 その最たる筆頭として先ず名を挙げられるのは『胡皓軒』だろう。容姿端麗、才徳兼備、高材疾足と称えられた宦官の名である。【章丹宮】にはその経緯からして異人が多く雇用された。彼は見出され、己の宮だけでなく他所にも僅かずつ散らばるそういった出自の者達を纏め、導くことまであったと言う。

 如何にも皇帝皇后はじめ権力を恣にする者達から重用を求められそうな『胡皓軒』であったが、少なくとも第十四代皇帝の間は表舞台に上ることを好ましいとしなかった。其れは彼の生来の気質――いわゆる人嫌いがそうさせたのだと言われており、結果としてどの権力にも擦り寄ることがなかったが故にこそ、逆にさまざまな功績を残し得たのだとも言われている。

 その一つが第十五代皇帝――つまり当時、皇太子として後宮に招かれる予定となっていた継子殿下の専用宮建設事業である。
 確かに元々、その作業には多くの異国からの奴隷が使われていた。少なくとも近隣三国の言葉を解したという『胡皓軒』がその任の頭にあたったのは、至極合理的なことでもあったのだろう。

 『胡皓軒』はまず事業に関わる者達の精査から始めた。権力の大小にかかわらず、また所属も問わず、全ての妃宮から平等に人を集めたと言われている。但し、後宮内で『胡皓軒』が影響力を持ちすぎることを危惧した皇后の命によりその数は最小限、かつ純慈瑤国人の徴用は禁じられた。
 しかしこれこそ、人嫌いの『胡皓軒』にとっては関係を浅く収められるという意味で好都合であったし、そも命に逆らう気も起こさなかったことが更に功を為したのだと後世では見られている。

 そうして建てられた皇太子宮は東四宮の最奥にあり、名を【瑞銀宮】と呼ばれた。
 さんごの瓦飾りも、蝶番に金を塗ることも皇后の命により禁じられたが、代わりに国内の木材を(後宮内の木々も多くが伐採された。其れはひいては異人たちを戯れに木に吊って遊んでいた貴人達の趣味を戒め、後宮の風通りを善くしたと言われている)用いて組木の建築方式を採用し、色彩は控えめながら複雑で見事な作りの宮を仕上げたと言われている。
 此れ迄の後宮内においては矢張り地味だと評じられ、好まれることは少ない構造であった。だからこそ、彼はいずれ来る皇太子へと、彼が其処で生き抜くに足る仕掛けを宮のあちこちに仕組むことが出来たのだ、と。
 何しろ釘を使う必要性が元来よりも大幅に低く、其れは『耐久の低い』――つまりこんな宮は何時でも潰し得る、と皇帝皇后を欺くことが叶ったからだった。

 ――否、人嫌いの彼自身というよりも、其れを目論見実行したのは彼の下についたまた別の宦官であっただろう。
 但し『胡皓軒』は其れを否定しなかった。面倒だったのもあろうが、彼の心にもまた其れを善しとするものが確かに存在はしていて、其れをわざわざ打ち消す道理もなかったのである。
 では其れを為したのは誰だったのかというと、恐らくは【槐黄宮】から『胡皓軒』の元へと貸し出された『李月然』、或いは同様にして【湖緑宮】から差し向けられた『王你好』あたりだと目星をつけられている。
 後者はいかにも偽名らしく、そういった者のほうがこんな知略を働かせそうな気もするが――…彼の働きはまた後世で別に挙げられており、つまり『王你好』はその下準備の為に【瑞銀宮】建築事業へと潜り込んでいた可能性が高い。

 となれば有力な候補となるのは前者、【槐黄宮】の『李月然』である。彼については見目に特筆すべきものが少なかったせいか公式に残された記録はごく少ない。ほぼ唯一、当の『胡皓軒』自身が当時の始末書として提出した書簡に其の名が出て来る程度である。
 曰く、『李月然』は【金母宮】――つまり皇后の客人である侍女見習いの不興を買う行いをしたことがあり、其れが原因で過酷な東宮建築作業に回されたと言う。それすらも、この国の未来を見据えて『李月然』が起こした敢えての過ちではなかったか、と今では推測されることが多くなっている。むろん、否定する声も多く挙がっていることも同時に書き記しておこう。
 何故なら其れは、その侍女見習い――…『   』がその後に起こした罪を、強く問う根拠のひとつとも為されてしまったからだ。但しこれこそが【瑞銀宮】主人である皇太子を王座につくまで永らえ叶った蜘蛛之糸であったのだから、当時から其処まで見通していたのだとすれば『李月然』こそがこの春秋四宮の泰山北斗であったのかもしれない。

 前述の通り『李月然』、『王你好』共に後世に残された資料は『胡皓軒』ほど多くはない。しかし、彼等の詩歌は【瑞銀宮】の至る所に数多と残されていたと言われる。
 宮の完成、御披露目時にも其れは披露され、綴ったのが『李月然』、吟じたのが『王你好』。
 異国の奴婢たちがこの舞台を切欠に女官へと格上げが為り、さしもの『胡皓軒』も、この時ばかりは嫌味ごとを噤んでいた。と、当時の文官達が楽し気に記録したものが珍しく複数の書面に残されていた。
 当人の気質こそ人嫌いの権力嫌いと呼ばれた『胡皓軒』であったが、蓋を開けてみれば事実、その名の通り彼の白いのきさきにて命を繋ぎ、また志を果たすに至った者達は少なくなかったと言える。そしてその内の多くが、流人と呼ばれる弱き立場の人々であった、と。


 【瑞銀宮】御披露目の儀式は、【東華霞木之儀】と呼ばれ、その舞台には十四代皇帝より各妃宮から祝いにとさまざまな舞姫が差し出された。
 中でもその舞台を牽引した娘の名前が『芳春』である。奴婢上がりながら【蓮紫宮】の女官であったと言われる彼女の舞には、見る者全てが息を呑んだ。
 特に当時の威風を誇り切っていた皇后に対し、『陽明珠』と呼ばれる真珠を献上する流れは見事のひとことであり、皇后ですら嫉妬を忘れて『芳春』を己の側人へと望んだ程である。

 しかし当の『芳春』曰く「哎呀!(ついうっかり)」と、前舞台であった剣舞用の装備を外し忘れていたという失態が咎められ、その重用は罰と相殺することで流れることとなった。
 舞の出来があってこそ皇后は終いまで機嫌を悪くはしなかったのだが、彼女へそれを仕込んだと読まれている【湖緑宮】の宦官『叡高』は意味深に微笑んで謝辞を繰り返すばかりであった。見計らっていたかのように、『芳春』の罪を減じる為に見事な貂の毛皮を差し出したという記録がある。
 其れは既に住人を全て飢えと病で失ってしまった彼の故郷から捧げることの出来る最後の供物であり、つまりこの一連の流れは皇后に対しての【宣戦布告】の始まりだったと言われている。

 ただ、その叛意を僅かとも感じさせないように、『芳春』の次にはひと呼吸の間をおくこともなく『金盞』が舞台に上がった。
 おおよそ皇帝の寵の対象からは遠い年頃である少女の『金盞』に皇后は気を取り戻したし、『金盞』からささげられた金箔と花弁の浮かべられた桂花酒の酒杯は手ずから傾けて飲み干し、いっそ皇帝へと彼等への褒美金をねだったりもした。
 まるで子猫のように小さく跳ねて舞う『金盞』の踊りと歌や給仕に全てのひとびとは邪気をそがれ、みごとにその金子は貂の代わりにと宦官『叡高』の元へ下賜された。
 そうしてそれは、巧みに皇太子の二度の政変資金へと流れることとなったのである。

 資金を匿う事に尽力した女官は『金盞』と同じく【雪藍宮】出身の『熙鳳』であったと言われ、彼女は珍しく結婚と出産を経た後で、縁あって後宮に下級女官――いわゆる下女として勤めた存在であったという。
 つまり『おとなごのみ』である皇帝のおぼえめでたく、市井の出にして一定の寵を得たことで皇后の目を夜間に限りすり抜けた。また、後宮暮らしの代名詞『三食昼寝付き』をつまびらかに過ごしたため、権力には興味がないとも認識されていたのだろう。
 実際に皇帝の渡りは数日のみのことであったし、その興味が次の女官――…何があったか珍しく年若い大足の『香嬌』へと向かった頃には、まるで【雪藍宮】主人から追い出されるようにして後宮を後にした、と言われている。
 その後の足取りについては誰も知らず、こうして全てを隠匿したのも矢張り【湖緑宮】の宦官『叡高』の采配であったのだろうということが現在での推測だ。


 ―――そう、全ては推測だ。此処に記した全てが正しいと誰が言えよう。
 歴史は水物であり、また未来から顧みて描かれるものである。
 今の価値観を持って過去を眺めて、其れでは当時の人々を当時のままに真を写したとは言えないであろう。
 これはあくまで一つの解釈である。
 そして、確かに存在したと言われる者達の命の上に成り立つ解釈である。
 その者たちはこの記録を見て、如何に想うであろうか。そう其の通りと手を打つやもしれないし、憤懣やるかたなしと失望をするのかも知れない。


(その後の文字は点滅し、矢張り再び読めなくなってしまっていた。)
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件名 【黄泉がえり事件の後に現れた書冊と木簡】 弧月の節 
投稿日 : 2022/11/26(Sat) 09:00
投稿者 繻 雪娥
参照先
【ほうぼうの書架に並べられている、とある歴史書に綴られた一節。】
 ――…其の名を『弧月』と言う。
 正しい名前は伝えられていない。第十五代皇帝が幼少時、未だ後継子として指名を受ける前から身近に仕えていたと言われている。
 先々代、先代、と後宮が荒れる中で継承権が移り、主が皇太子として上殿することになった際に、おのずから自宮を果たし名を『弧月』改めたらしいことのみが記録されている。

 ゆくゆくして皇太子つき太監となった『弧月』であるが、その生涯は長くない。
 皇太子は先帝と皇后に対し二度ほど政変を試みたが、その一度目の蹉跌の際、処刑されたもの達の中に名が連ねられている。
 特にこのときの処分者は、政変の筆頭がときの有力者『繻家』一門だっただけに数が多く、逐一の記録を残されたものは少ないが、積み重なる注官の未処理文書の中よりかろうじて発見された書面から読み解くには…

 皇太子付太監『弧月』
 処刑日、五月十日の正午。
 罪状としては、――逆臣『繻家』一族の誑言に操られ、まだ年若き皇太子へ現帝に対する猜疑を刷り込み、国家を内部から揺らがさんとした、となっている。
 特にその誑言の受け取り元は『繻家』の末娘からであると噂された為、また彼女は名門『繻家』の一族として皇太子の選秀女を受ける予定でもあったことから、これは後宮内に於いて決して許されることではない『不義密通』と見做され即座に死刑を言い渡された。

 皇帝に叛こうとした宦官の末路は決まっている。
 即日に首を落とされ、落とされた首は籠に入れて城下に晒される。
 首より下は衣装をつけたまま筵の上に置いて同様にさらされ、市民たちには、その身体を素手や石、箸や釵の道具を使って滅茶苦茶に辱めることを下知された。
 開かれた腹の中に詰まっていた最後の食事さえ、嗤いものにするようにと命が下ったのである。
 第十四代皇帝と皇后はそのようにすることで国家の威信を固めようとしたが、其れが皇太子へ二度目の政変を決意させたと推測することは想像に難くないだろう。

 『繻家』側にも同様の罪状による追及が行われたが、此方は元が名家のことだけあって取り調べも細微に及んでおり、記録は厳重に管理されている。
 ――すべては皇太子が蟄居を命じられている間に済まされた、と伝えられている。其れは三月にも及ぶ大政変未遂であった。



【出現の度に空欄が埋まる、ブックカフェ「パピルス」に再びあらわれた木簡の歴史書】

 ――此方の歴史でも、宦官『弧月』の名は一度目の政変の処刑者一覧に連ねられている。
 但し、その先が新たに木簡上に読めるような形となって表れた。今だ空白は多いが、文字を追ってみるならば、こう読み解けることだろう…。


 第十五代皇帝の内官女官を決める為の試験、『選秀女』は特に大きく催された。
 続きに続いた各種争乱の影響を払拭する為には必要なことであっただろう。また、多くの土地で身寄りを失った女性たちがあふれていた。
 『おとなごのみ』であった先帝と異なり、十五代皇帝は此れからの後宮を作り上げるにふさわしい、若き女子達を善しとした。
 甲斐あって、今世こそは未来ある才気豊かな女子達が確かな試験によって選抜され、慈瑤国の最華を極める一端となったのである。
 皇后『  』、左右を固めた『 』貴妃と『 』賢妃の存在は有名であろう。彼女等もそうして見出された者達であった。

 さて、選秀女。
 皇帝より新たな宦官は増やさないとの触れがあった以上、後宮に残っていた彼等にとって其れは一世一代の大仕事となった。
 或いは故郷へ戻り、或いは親族を伝って、国土各地はたまた隣国や属国より候補となる娘を探そうとした。
 少なくともいち宦官につきひとりは候補者を見出してくるべし、とは暗黙の了解であった。

 最中、後宮をひとりの青年が訪れる。手には薫墨でしるされた書片を携えていた。
 地方の若き官吏で名を『鑒宿』と言う。政変後の数か月でその土地を立て直した穎才で、騎虎の勢いであった。
 『鑒宿』により届けられた書片には、代替わりを経て今や悪名を注がれた宦官『弧月』の名と共に、ひとりの少女を試験に推薦する旨が記されていた。

 娘の名前は『胡智』。三食昼寝付、の条件に釣られて返事をしてしまったのが、平穏に済む筈であった彼女の今生を大きく変えてしまった。
 出身を駿馬を生み出すことばかりが有名な、農村とも呼べない過疎区の土地とされており、そこら一帯に於いて三代に渡る乱世を生き残った果ての娘はひとりきりであったから、そもそも断ることすら出来なかったのかもしれない。
 過疎とは言え名産の馬を目当てに古くより『墨家』――…当時では『緋墨』と呼ばれる、頭目を『汪逵』として草原の治安に駆ける一派により庇護をされていた地区で、
 であるから成程、『弧月』が『胡智』を選ぶに至ったのには、その『汪逵』の有能な仲間たち、『赫狼』や『香嬌』の繋ぎがあったのかもしれない。

 『鑒宿』は書片……推薦状だけを奉じて直ぐに去ってしまった。その才覚により「千里眼を持つ」とも「過去に生きた百世分の記憶がある」とも言われるほどの男であったので、幾ら皇帝をしてもその場に留めさせきることは出来なかったのだろう。
 後ろ盾となるはずの宦官『弧月』も既に亡かった為、いくら試験を持ち前の如才なさで優秀に突破しようと、『胡智』の後宮での始まりは内官からでなく下方、『尚寝』からの始まりとなってしまったようである。提示された条件からは程遠い生活に、さぞ話が違うと憤ったことであろう。

 但し食うには困らなかった。寝るにも困らなかった。筆にも墨にも困らなかった。となると、『胡智』の肩ほどまであった髪が腰までに伸びる頃には、第十五代皇帝の双眸を逸らせぬほどの才媛に育ったであろうことは如実に思い浮かぶ。

 曖昧な表現になってしまうのは、栄華を極めた『慈瑤国』もいずれは糸が綻びる様に時の流れにくべられて、注官たちが心血注いで記録を残した木簡も、殆どが朽ちて読めなくなってしまっているからだ。いずれは本書もそうなるだろう。

 かろうじて読める範囲で当時の後宮の内部書へ目を通して見る。目につく妃嬪の一覧に其の名はなく、尚寝部の名簿からもごく早々の時期に名前が消えている。よもやと思って男の名前ばかりが並ぶ科挙合格者一覧を眺めてみたが、其方にもめぼしい情報はなかった。
 ただひとつ言えるのは、妃嬪の一覧にも、女官の一覧にも、文官の一覧にも腐り落ちて読めない名前の箇所が幾つもある。例えを挙げれば九嬪の一覧、いずれ南下『  』の王『 』へ同盟の使者として遣わされた『  』妃のように、後から合致するものが出て来るかもしれない。

 と、いう――希望的観測を最後に添えて、この節を終える。続いての章では、再び『緋墨』の一団について語ろうと思う。特に『汪逵』より『   』に下賜された名馬『当千』については、この流れからそのまま記すべき事が山として積み重なっているのだから―――…

(その後の文字は点滅し、再び読めなくなってしまっていた。)
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件名 【アビスロイドシャドウ事件の直後、ブックカフェ「パピルス」に突如あらわれた木簡の歴史書】
投稿日 : 2022/11/26(Sat) 08:58
投稿者 繻 雪娥
参照先
 第十五代皇帝、『  』帝の後宮に仕える娘達を選りすぐるための試験『選秀女』は、紆余曲折の末に無事に決着を得た。
 随分と久しぶりの宮女試験とだけあって国中より数多の娘が集められた。その中でも選りすぐりの美姫達が試験を通過したが、その中の多くに共通してみられる、とある特徴、があったと言われる。

 中でも第一妃として選ばれた『  』妃の高名ぶりは後世まで語られることは間違いないと言われており、その容貌のみあらず人柄、また才知においても随一とうたわれる。
 他にも三妃が稀代として選出された。中でも『  』妃は第一妃に勝るとも劣らずと言われるほどの女傑であると言われていたが、長らくの間、何故か皇帝の渡りはなかったとも伝えられている。

 輪をかけて不思議なことは、臥所を一度たりとて共にしなかったというのに、決して皇帝はその『  』妃の事を軽んじる事はなく、時に南下の遠征や会談の際には、第一妃を於いてこの妃を好んで伴ったという。

 果たして、どういう経緯を得たのか。『  』妃の名は、最後の南下遠征への伴いを切欠に、後宮の記録書から名前が失われている。

 ほぼ同刻として、慈瑤国十五代皇帝より、南下の先に所在する国、『  』国の『 』王へと、同盟の為に妃嬪が一人輿入れをした記録がある。
 其の名を『  』と言う。
 しかしなぜか、その南下の国『  』国に伝わるその妃の特徴は、濡れるような『  』の髪に『  』の瞳、そして『     』の才という、記録上にあった妃嬪の情報とは全く似て非なるものであった。
 その特徴、また賛美の言葉が最もよく似合うのは、後宮の記録・歴史書より名を消された『  』妃のほうであったであろう。


 更に歳月、草原を駆ける。
 鴛鴦が印に掲げられる程の慈瑤国15代皇帝とその第一妃の間には待望の子が誕生し、国の栄華も更なると民が口々にしていた頃。
 それまで動きを潜めていた北の脅威、『  』が数年を跨いで再び国境へ攻め入ったと報せあり、皇都は再び争乱への不安に揺れた。
 数年前の政変『     』より国力がいまだ回復しきらぬ慈瑤国のこの危機へ、助力の名乗りを挙げたのはかつての南敵『  』国である。
 その後ろに前述の妃嬪の働きがあったことは想像に難くない――と、通常ならば謂れよう。
 しかしそうとはならなかったのは、ひとえに前述の煙に巻かれたような疑念が付いて回ったからだと言えよう。

 慈瑤国と『  』国の連合は良く北狄『  』と鬩ぎ合った。
 どちらかが押せばどちらかが引き、互いに一歩も譲らない。
 然して其れは即ち、戦場となる国境付近の国土の荒れが永久に終わらないという事でもある。
 血が流れ、大地に染み、流れる大河すら緋色に染めて命の水が穢される。
 草原は焼かれ、馬と狼が共に骨ばかりとなり、灰に乗って居場所を求めた蟲が飛ぶ。

 ひとつの城が落とされ、さらにまた落とされ、逃げ落ちた民が落ちた城へ流れ着き、其処に籠るもまた戦禍が燃え渡ってゆく。
 皇都からも『  』からも遠いその城を守るには距離が高く阻む時代であった。

 其れを憂う一団がいた。
 皇都にも、大河を隔てた北の地にも、海に面する南の国にも、そして
 永き草原の歴史の上から、最も遥か長く憂いて立ち上がる一団がいた。

 其の名を古きは『墨家』と呼ぶ。更にこの時代には幾つかの派閥に枝分かれし、此処、慈瑤国の歴史と合わさるのは、中でも『緋墨』という一派であった。

 頭目の名前を『汪逵』。これもまた、いつかの選秀女の娘達と同じく、不思議な特徴を持つ者であった。
 ただ一つ違うのは、娘ではなく男である。そしてまた、彼の元に集う仲間のうちにも、彼と同じ特徴を持つ者らが存在していた。
 頭領の両片腕の鉾として名高い二人、また盾としてその頑丈さを草原の果てまで轟かせた者など。その仲間は多種に渡っていたという。
 隻眼、隻腕、地方の出、海の向こうの出、男、女、大人に子供。
 中でも、団の中でも才媛と名高い『香嬌』は、容姿端麗また人望にも長け、出自特徴様々な仲間達を纏めるのになくてはならない存在だったとも伝えられており、彼女を題とした唄や演舞が後世までさまざま残された。

 娘達、男達、垣根なく彼らのことを、後世では『   』と呼ぶ。
 掲げられた思想は『  』である。これもまた、後世へと長く語り継がれている。

 其の口伝を草原に駆けさせた一端の更に末端となった娘の名前が、此処で漸く出て来る。
 『  ・  』
 黄央にて生じ、紅南下し、蒼舩、伯西へと大河渡りて、北玄に至る。
 唯、その歴史の流れに乗り合わせるだけの事となり、何をするでもなく、ただただ、歴史の端に居ただけの。

 胸に痣があったという。其れは遠い彼岸に流された際に強く強く抱きしめていた『  』の、その文字が皮膚を鬱血させて出来た痣だった、と。

――――

 其の娘、『緋墨』に伴い、三つの籠城戦を果たして渡る。
 その先はいよいよ『  』の統べる北領であったが、踏み入れる前に頭領『王逵』より名馬『当千』を賜る。
 『香嬌』は餞にと焼菓子を振舞う。『  』は茶の一煎を持って返し、永久の別れに交杯す。
 其の時の菓子は『紅殻』と呼ばれ、存在を遥か北へと伝えられた。小麦と砂糖で作った種を二枚貝の間に流して、紅くなるまで挟み焼く菓子である。


 (文字の点滅が続いている――…。)
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